おへそのおなか


あなたに手紙が出せない

 そもそも、軽い気持ちで文通をしたいなどと言ったのが間違いだったのか。



 「拝啓」と書いただけの便箋を何度ぐしゃりと丸めたことだろう。文を書くと言えばTwitterかブログの人間がペンと紙を手に入れた途端に「拝啓」とは滑稽である。もっとカジュアルに、例えばおはこんばんちはとか、誤魔化すようなふざけた挨拶で始めてしまえば楽になるのだろうか。しかしそれでは情けない。何のために文通をするのだ。拝啓春暖の候ご健勝をお慶びし早々敬具するための文通ではないのか。いやそんなものただの形式で、そんな所に拘るからつまらないのではないかーー等々、考えてばかりで、筆は一向に進む気配がない。何なら、便箋を丸める作業に酔い始めている。

 先日すっかり酔っ払った時にTwitterで「文通をしませんか」と投稿、同じ試みは過去にも何度かしたことがあるのだが反応を得られたことはなく、どうせ今回も相手にされないだろうと高を括っていたところ、何と2人から反応があったので有頂天である。長らく燻らせていた文通への憧れ、それをとうとうすくい上げてくれる人が現れたのだ。その日の内に便箋と封筒を買った。飾り気のない、素朴なものである。家に帰って早速書こうかしらと思ったが、手紙を書くなら純喫茶というこじらせた夢を思い出して、その日は布団を被って寝た。

 そして格好の純喫茶を見つけ入店、ペンを握ったは良いものの、冒頭に戻る。



 2人の内1人は、遠方に住む気の良い女性で、一度だけ会ったことがある。用事で此方に来ていた際に私から会おうと誘っておいて、私は何も持たずに面会に臨んだのだが、彼女は気の利いたお土産を差し出してくれたのでへこへこする他なかった。

 もう1人はお互いに顔も知らぬ女性である。私のブログを読んでくれているらしく、私についての情報もそこからちらりと仕入れてくれているのかもしれない。私は彼女について性別、居住、Twitterのフォロー欄しか知らない(3番目はかなり大きな情報源と思っているけれど)。今回彼女の方から声をかけてくれた。2人ともに、私から手紙を書くと豪語したは良いものの、冒頭に戻る。



 文通に対する漠然とした憧れについて、文通の機会を得て初めて考えることになった。

 そもそも文通とは共犯であって、「拝啓」を添えるか否かは互いの関係性が決めることではないか。彼女らと私を繋げたものはインターネットである。だとしたら拝啓と添えるのはコントなのではないか。いや、でもわざわざ文通という媒体を選んだのだから、すこしかしこまるくらいがちょうどいいんじゃないか。相手に届いてすらいない内に思い悩むのもおかしなことなのかしら。しかし私の送った手紙を土台としてその後のやり取りが続いていくとしたら、やはり適当にする訳にもいかない。そもそもこのやり取りは本当に成り立つのかしら。届いた手紙にがっかりされたらどうしよう。

 私がしたかった「文通」とは一体、何なのだ。



 そんなことを考えながら、まだ手紙が出せないでいます。これは言い訳なのですが、それでもいつも手紙のことは考えているのです。忖度と思わないでほしいのですが、そんな時間も楽しんでいるのです。今しばしお待ちいただけると幸いです。敬具