おへそのおなか


とりとめのない話

 ちょうどいい髪の長さでいられるのなんて、せいぜい4日だと思う。


 記録によると、最後に髪を切ったのは4月24日。同じ時を過ごしている皆さんならお分かりの通り、4日どころの騒ぎじゃない(異なる時間軸にお在りで、偶然この記事にアクセスしてしまった方に説明すると、4月24日というのは絶対時間でいうところの50日前のことです)。全体的にもっさりしてきたし、特に耳の後ろが重たい。気温も湿度も高くなってきた今日この頃は、わさわさしたそこに汗が溜まりやすく、その上、外出時は帽子をかぶるので、ますます蒸れる。不快。帽子を脱げという声も聞こえてきそうだけど、そういう訳にはいかない。


「帽子、めちゃくちゃ深めにかぶってますね」


 先日、初めて会った人に言われた言葉だ。なにも、わざわざ印象を悪くしたくてそんなかぶり方をしている訳じゃない。理由を説明しよう。私がかぶっているのはつば付きのキャップ帽。これを目深にかぶることで、視界をグッと狭めることができる。脳内に直接アクセスを試みる悪質な電波が飛び交うこの世界、うっかりむきだしで生きると、あっという間に洗脳を受けて死んでしまう。すこやかなままで生きのびるためにも、帽子を深めにかぶることは欠かせない、というのはウソ、大ウソ、なにからなにまで全部ウソで、本当は日差しが嫌いなだけです。


 かぶりっぱなしの帽子をひっくり返すと、よく知った匂いがする。というのはつまり、身の丈に合わない美容院に行っていた頃に買わされた--失礼、巧妙な宣伝の影響を強く受けながら自ら選択して購入した高っけ〜シャンプーの匂いに似ているんだけど、ただそれだけではなく、コクがあるとでも言おうか(コクと聞いて嫌な予感がしたならそれは的中します。ごめんなさい)、シャンプーと、自分の体臭とが入り混じった匂いのことである。想像するのも堪えないと思うんだけど、持ち主である自分にとってはそんなに悪くない。むしろ、まるでこの帽子がただひとり自分の分身、いや、自分の分身なんてものが存在するならそれこそ堪えがたい悲劇なんだけど、都合よく自我から解き放たれた分身のように感じられて、なんだかんだでキョーレツな自己愛から逃れられない私にとっては、いとしく感じられて仕方ないのである。くんくん。


 なんの話だっけ。


 「なんの話だっけ」といえば、人と話しているときにしばしばこの状態に陥るんだけど、それってなかなか、おそろしい。おそろしいのは、忘れっぽいことについてじゃなくて、「なんの話」の「なん」を追求するのが。話し合いかなんかで議題が決まっているんだとしたら、話がすっかり脇道にそれたことに気づいた誰かがほっぺをポリポリかきながら「あのう、ところでなんの話ですっけ」なんて言うのは、けっこう気が利いてるかもしれないけど。たとえばこんな風に。


「出入り口付近で立ち止まらないでくださいと言うが、出入り口付近付近で立ち止まっている奴はどうなんだ」

「出入り口付近付近付近で立ち止まっている奴がいるんだから仕方ないだろう」

「ではあの、さも常識人のような面をして出入り口付近付近付近付近付近付近に立っている奴をつまみ出さねばなるまいな!」

「あのう、ところでなんの話ですっけ」

「……ああ、そういえば我々は穴のないシュークリームをシュークリームを呼べるのかどうかについて論じているのであったな」


 だけど、大抵の場合、話さなくてはならないことなんてない。少なくとも今はずっと「なん」ということもなくつらつら話しているだけだ。それでも急に「なんの話だっけ」という気持ちになる。答えがあったらいいなとも思う。ないんだけど。それでも。立ち返る場所がないのにどこかへ帰りたくなる。それでも帰りたい。どこに。なんの話だっけ。