おへそのおなか


私のために声をひそめないで

 某カフェチェーンの2階席。平日の昼下がりということもあって人気はなく、私の他に、女子大学生の2人組が居るだけだった。仲の良いらしい2人はおしゃべりに花を咲かせていたのだが、その声は店内BGMとともに音楽として空気に溶けていくばかりで、特に内容を気にすることもなかった。

 2人が声をひそめるまでは。

「……それでね、その男の子は童貞だったらしくて」

 ブーーーッ!!!(コーヒーを噴き出す音)(実際にはコーヒーを噴き出してはおらず、なんならこのタイミングでコーヒーを口に運ぶこともなく、さらにさらに注文したのはコーヒーではなくアイスカフェラテの氷少なめ)

 なぜ突然声をひそめたのか。今までどおり話してくれればいいものを、こちらとてモブに徹しきれぬ人間、声をひそめられると耳をそばだててしまうというもの。いや、ひそめられている以上、耳をそばだてるのは彼女たちを裏切ることになってしまうのだろうか。恐らくこの場に私がいなければその2人も声をひそめることなくイカガな話をしていたのだろうが、私がいることを気にしてくれたのだろう。急に申し訳ない気持ちになった。どうしよう、退店しようか。しかしこのタイミングで退店したら、かえって申し訳なく思わせてしまうだろうか。

 いや待てよ。

 私だってお金を払って注文したからこそここに寛いでいるのであって、私がここにいることにはなんの問題もないはずである。だめだだめだ、惑わされるな。2人が声をひそめたので図らずとも他者の中の自己のあり方に戸惑ってしまった。話の内容はともかくとして、声をひそめられたことに私は困惑しているのである。

 別にその話をやめろとは言わない。あなた方も私も正規の料金を払って滞在しているんだから、気持ちよく過ごすために、お互い気兼ねなくやりましょうやと言いたいのである。恐らく2人は、イカガな話を公共の場ですることについて後ろめたさを感じているというアピールをするために声をひそめるというポーズをとったのであろうが、そんなものは配慮でもなんでもない。配慮するというのなら、そもそも声量を絞らなくてはいけないような話をこんな場でするべきではないのである。二つに一つ。堂々とイカガな話をするか、今すぐその話をやめるかだ。

 とは言えズカズカと歩み寄って「あの、その話、声ひそめずにやってもらえますか」などと言おうものなら不愉快どころではない、事案待ったなしである。そんな危険を冒すほどのことでもない。ここは穏便に済ませよう。私はリュックからカナル型イヤホンを引っ張り出し深く深く耳にはめ込んで、『寿司屋』のサウンドを再生する。聴覚に強引に引きずられるがままに、意識を活気ある寿司屋の音に集中させる。「へい、中トロお待ち!」ズズッ(アイスカフェラテを飲む音)! めでたしめでたし!