おへそのおなか


キスの味

「カレシとキスする前はレモンキャンディをなめる」



 当時中学生だった私が姉のセブンティーン(ティーンズ向け雑誌)をめくっていると、衝撃的な慣習が目に飛び込んできた。雑誌の真ん中あたりにある単色刷りのページに組まれていたキス特集に、読者が投稿したものだったと思う。

 当時、私の知っているキスといえば、少女漫画のヒロインがKissで口をふさがれるアレくらいのものだったので、イケてる女子高生の生々しいキス事情にたいへん興奮したことを覚えている。翌日には母にレモンキャンディを買わせていっぺんに5粒も食べた。

 そもそも「キスはレモンの味がする」とまことしやかにささやかれていたのは私の年代に限った話なのだろうか。

 もちろん、自然発生する口臭からレモンの香りがする訳ではないけれど、キスが恋の最高到達点だった頃の私にとって、それはとても素敵な表現に思えた。ときめきや憧れをおさめるのに、あの眩しい紡錘型はどう考えても理想的だった。カレシとキスをする前にレモンキャンディをなめるという行為も、たいへんロマンチックな計らいに思えて仕方なかったのである。

 私はまだ知らぬキスを思っては夜な夜なレモンキャンディをなめ、フム、これがウワサのねえ、とメタ・キスを愉しむ日々を送るのであった。



 あれから随分と時間が経ち、私も大人になってしまった。

 セブンティーンはもう手に入らない。私をターゲットに据える雑誌は、結婚とか、キャリアアップとか、愛されうるつや肌に夢中で、みんなレモンキャンディのことなんて忘れてしまっている。忘れられたレモンキャンディたちは夏の日差しが強く射すビルの陰に転がり、文句も言わず、じわじわと溶けていくだけだ。






 ところで最近、歯科医院にかかっている。

 初診で口の中にリトマス試験紙のようなものを入れられた。口内のpHが分かり、虫歯になりやすいかどうかを調べられるというシロモノらしい。

「ちょっと苦いけどペロペロしてください」という指示に素直に従い、歯医者さんに見守られる中(こんなところ見ないでよ)神妙な面持ちでペロペロしてみたところ、私の口内はやや酸性よりで虫歯になりやすいとのことだった。

「歯磨きだけだと不十分なので、デンタルフロス使ってくださいね」

 あ、聞いたことあるやつだ、と思いながら、やはり指導に素直に従ってその日の内にマツキヨでデンタルフロスを買って帰った。いわゆる糸ようじだ。歯磨きに加えてデンタルフロスまでするなんて面倒くさいなあ、と思ったけれど、サボってバレて怒られるのはもっと嫌なのだ。

 帰ってご飯を食べて、さっそくデンタルフロスを試してみる。面倒くさいといいながら、新しいものを試すのがけっこう楽しみだったんだと思う。教えてもらった通り、歯と歯の間に通してこすこす動かしながら、抜き取る。うん、うまくいった。そして無意識に嗅いでみる。



「えっ、なにこれ、くさっ!」



 絶望した。

 いわゆる歯垢が取れたんだけど、すごくくさいのだ。なにこれ。私の口ってこんなにくさかったのか。みんな気付いていたんだろうか。今まで誰も言わなかったのは、気を遣って黙っていてくれたのだろうか。

 はかなくもあこがれていたレモンキャンディは、その小ぶりな球体にためこんだたくさんの火薬にとうとう火がつき、爆発四散した。尖った甘酸っぱいかけらが身体中に刺さり、私は一機失った。



 あなたがすでにキスの味を知っていると思っている、あるいはキスの味を知らないならば、デンタルフロスを使ってみてください。それがあなたのキスの味です。



※名誉のために書き加えておくと、今は毎日デンタルフロスを使用しているため、もう臭くないです、たぶん。おしゃべり大丈夫です。