おへそのおなか


やさしさの隠れみの

8月27日(月)

 眠れないままベッドで転げているうちにGMT+09:00線上で暮らす人々の多くが起床していそうな時間が来るのでその一員としてなんとなく起き上がってみる、そんな朝の繰り返し。



 今朝はお腹が重かった。見るとほとんど苔で覆われた漬け物石が乗っかっている。そりゃ重いはずだ。

 苔を手でこすってみると、石に細かく字が刻まれていることに気付く。なになに。「出なかった着信の通知」「かけないといけないのに先延ばしにしている電話」「しないと失礼なのにしないままでいる諸々の連絡」「片付けないといけないはずの部屋」「受けないといけないはずの健康診断」「考えないといけないはずの将来」「身につけないといけないはずの技能」「アパートの契約更新手続きをするかしないかの決断」「預金残高」……………………。

 なんてこったい。こりゃもう腹をくくって漬け物になるしかない。大丈夫、昨日みんなで食べた漬け物おいしかったし私もおいしく召し上がっていただけるはず。みなさんよろしく、グースカピー、ともいかないのは、歯科医院の予約時間が差し迫っているからである。前回予約時間を大幅に間違えるというへまを働いたので今日はスマートに7分前に着きたい。着くぞ。時間を守れない奴に何が守れるんだとドアラも言っていた。漬け物石を放り投げて起き上がる。バリンと嫌な音がするけど振り返らない。

 この部屋は散らかっている。しかし私は主なので毎日使うものは手癖で見つけることが可能、見つからなければ諦めるまでのこと。必要なものをぽぽいとカバンに詰めて、あ、しまった、お金がないんだった。手をつけないでおこうとかたく心に誓っていたはずの母からの謝礼にあっさり手をつける。

 謝礼とは、この前、家族旅行に参加したら「来てくれてありがとう」と母からお札を数枚握らされたのです、兄弟で唯一私だけ。家族旅行なのにゲスト枠かよ、実子だぞと思いながらも受け取ったのです。そうして還暦を迎えた母が年下の店主に叱られながら田舎ならではの時給で稼いだ1万円で私は病院に行くのです。ああ情けない、ああ笑えない。しかし母、ありがとう、お陰で7分前に着けそうです。あとね、実は私、働いていません。

 故郷にどろどろの念を飛ばしつつ一番最初に見つかった靴下を履いてさあ出発、あ、そういえば今日は病院βにも行くんだった、おくすり手帳(紛失の末の2冊目)はどこにやったかな、どたばたばた、あった、よし行くぞ、あ、日焼け止め、にゅるるるるるるるる、そしてようやく出発にこぎつける。



 自転車でこぎ進む日陰は涼しく、18年前の今日ラジオ体操をしていた時とちょうど同じ気温だった。

 空き地に集合したのが6時半、寝ぼけながらみんなで体操をして、インクの切れかけたスタンプをおして、柵から柵までの直線を3往復走る。この時、空き地の横の家で飼われていたシロという犬がぎゃんぎゃん吠えるのが恐ろしくて、はやく終われと思っていたんだけど、夏以外の季節にシロは死んだ。小学生の私は、シロの死を喜んでしまった。

 件の家族旅行の際、兄にシロの話をしたら「シロなんていたっけ」と首を傾げたのがおもしろくて、兄以外にはシロの話をしないでおいた。



 歯科医院には思惑通り10時53分に着いて、よしよしと思っていたら、前の患者さんの治療が長引いているらしく15分ほど遅れるとのこと。大丈夫ですと許す側の余裕を見せ、ソファに体を預けて二日酔いを堪能する。ああ、昨日はたのしい夜だったな、健康になってしまったらあの夜も終わりか。

 かかりつけが、なかなかすてきな歯科医院で、いつも丁寧に治療をしてもらうんだけど、今日は「これで終わりです」と言われた時に口の中に出し忘れた綿が残っていたのでさすがに「くくくくく口の中になにかある!」と歯科医院で初タメ口、初笑い、初どもりの三冠を堂々記念した。最近はやたらどもるので焦っている。

 さて受付で次の予約をとる時、あまりにも私の融通が利くので「お仕事は夏休みですか?」と尋ねられ、そんなに長い夏休みがあるかよ(あってくれよ)と思いながら「今は休んでいます、すみません」と謝罪してしまった。受付の人は察して困ってバグった末に適切なトーンを見失い、明るい声色で「あっ、そうなんですね」と応じた、語尾に音符でも散らさんばかりの勢いであった。気を遣わせてすみません、そして働いていなくてすみません。歯科医院を出て泣いてしまった。なぜ私は歯科医院に来るたび泣いているのだ。



 それから病院βまでの時間をいつものカフェで過ごそうと自転車をこいでいたら、背中の曲がった女性がラーメン屋の前でメニュー看板を見ながら悩んでいる姿を見つけて、あろうことか私は「お気の毒に」と思ったのである。なにがだ。一体なにがお気の毒なんだ、言ってみろ。お気の毒なのはその心のみにくさだ、みにくい心がむき出しにならないように普段は必死に誤魔化しているだけなんだな、実は。騙していてすみません、やさしい人たちにやさしいままでいてほしくて取り繕っている、あわよくばこのまま騙されていて欲しいけど厳しかったら逃げてください、追いかけませんから。えっ、なんの話? 怖いよ。



 日陰から日陰をたどりながらいつものカフェに着き、いつものアイスコーヒー氷抜きを注文しようとしたら「アアアアアアアアアアアア」! あっ、大変、私、アしか喋れなくなってる! えへんえへんと咳払いをして「アッアッアイスアイスコーヒー氷抜きで」と注文をなんとか果たす、店員さんごめんなさい。

 今度からあれだな、「アイスコーヒー氷抜き」と書いた紙を携行していこう。目が悪い人もいるから大きい字で書こう。漢字が苦手な人もいるからルビを振ろう。白背景が苦手な人もいるから黒い紙にも書いておこう。文字が苦手な人もいるから氷を抜いたアイスコーヒーの写真も貼ろう。目が見えない人もいるから音声も用意しよう、うまく話せる時に録音しよう。

 世界ってとびっきりやさしい方がいい、性善説にあぶれた私でもやさしく暮らせるくらいがいい。そんなことを思いながら麻酔が切れない歯茎をなめている。綿でも詰まっているような不思議な感覚だ。